全身の筋肉が徐々に動かなくなる難病に光明。だが、動物実験に倫理的な課題も。
そのブタは、生後数カ月で脚が弱り始めた。最初はめまいを起こしたようにふらつき、研究所の滑らかなコンクリートの床の上で、何とか立ち上がろうともがいていた。しかし、数週間後には完全に倒れ込んだ。1歳になるころには、息をするのも苦しそうになっていた。
清華大学(中国・北京)の医学部教授、賈怡昌氏(53)にとって、この瞬間を見守ることは胸が張り裂けるほど痛ましく、同時に興奮を抑えきれない出来事でもあった。この時が訪れるのを長年待ち望んできたのだ。
神経科学者である賈氏は、これまでの研究人生の大半をマウスを使った実験に費やしてきた。全身の筋肉が徐々に動かなくなる筋萎縮性側索硬化症(ALS)の発症過程を再現しようと、その原因遺伝子をマウスに組み込む試みを続けてきた。しかし、マウスには症状が現れなかった。
マウスは健康を保つのにブタは次第に衰弱する。この違いが研究の転機となった。賈氏は、差を生み出す要因をマウス特有の遺伝子にまで特定。それがALSの進行を抑える治療法の開発を後押しする発見となった。
米食品医薬品局(FDA)は今年、その治療法「SNUG01」をヒトを対象とした臨床試験に進めることを承認した。また「オーファンドラッグ(希少疾患治療薬)」にも指定し、税制上の優遇措置も適用した。これまでALS向け遺伝子治療の多くは、特定の遺伝子変異を対象に開発されてきたが、賈氏の治療薬は複数の仕組みで神経細胞を保護するよう設計されている。もし有効であれば、ALS患者の約9割を救う可能性がある。

人間の病気を治すためにブタに苦痛を与えるという倫理的な葛藤について、賈氏の中ではすでに答えが出ている。
「実験動物の命と、その科学研究への貢献は尊重すべきだ。しかし同時に、苦しんでいる人間の仲間にも思いやりを持たなければならない」と同氏は指摘。「もしALSを実験動物で治すことができれば、人間を救う手がかりにもなるかもしれない」と語った。
賈氏の研究は、習近平国家主席が掲げる「中国をバイオテクノロジーの超大国にする」という野心にも重なっている。同分野はこれまで米国と欧州が主導してきたが、中国は近年、その覇権争いに名乗りを上げた形だ。動物実験の縮小が進む各国とは対照的に、中国はあえてその限界に挑んでいる。ブタやサル、イヌといった比較的大型の動物の遺伝子を改変する研究について、中国では規制がほとんど設けられていない。一方、米国や欧州では倫理審査の手続きが多段階にわたるため、同様の研究は実施が難しくなっている。

中国の研究者を支えているのは規制の緩さだけではない。国家による資金面での後押しも大きい。中国政府は2023年だけで、推定30億ドル(4600億円)をバイオテクノロジー分野に投じた。細胞治療や遺伝子治療の市場規模は、昨年の3億ドルから2033年には20億ドルに達すると見込まれている。
習主席は、中国を「世界的な科学技術大国」に押し上げる方針を掲げ、バイオテクノロジーと遺伝子編集を国家の戦略的重点分野に位置づけている。中国の製薬企業は長年、他国で開発された薬を再現するジェネリック医薬品の製造を主力としてきた。だが、遺伝子編集の研究に本格的に踏み込むことで独自の新薬を開発出来るようになれば、外国依存を減らすことにもなる。
実際、中国の研究成果は目を見張るものがある。研究者らは自閉症や睡眠障害のモデルとなるサルを作り出し、霊長類のクローン化にも世界で初めて成功した。さらに、代謝疾患や神経疾患を持つイヌを遺伝子操作で生み出し、血液凝固異常を抱えるビーグル犬の遺伝子改変クローンまで作り出している。

市場調査会社の智研諮詢によると、バイオメディカル分野における遺伝子改変実験動物の世界市場は、2024年に150億ドル規模に達する見通しで、この10年で2倍以上に拡大した。小型哺乳類を中心とする遺伝子改変実験動物の市場は長年、米国の研究機関や企業が主導してきた。これに対し中国では、政府が主要研究施設に資金を投じ、国内企業も独自に開発と販売を進める体制を整えている。
独シンクタンクのメルカトル中国研究所は、中国のバイオテクノロジー産業の急成長により、米欧の製薬サプライチェーンが中国への過度な依存というリスクを抱えつつあると指摘している。さらに遺伝子編集は、軍事と民生の双方に利用できる「デュアルユース技術」でもある。同研究所の幹部は、極端なケースでは生物兵器や遺伝子改変ウイルスの開発に悪用される恐れがあると警鐘を鳴らしている。

医療分野の動物実験を管轄する中国科学技術省は、本件に関する取材要請に応じなかった。
遺伝子改変動物の利用状況を正確に把握するのは困難だ。製薬企業は開発の詳細を規制当局に報告する義務を負うが、その情報が体系的に公開されることはない。2024年の調査によると、承認済みの47種類の遺伝子治療薬に関する前臨床研究のうち、39%で遺伝子改変動物モデルが使用されていた。
しかし、西側諸国では、動物実験そのものへの意欲が薄れつつあり、とりわけ人間の疾患を遺伝子操作で動物に組み込むような研究には、いっそう慎重な姿勢が強まっている。動物実験に反対する活動家らは研究所の閉鎖を求め、航空会社に圧力をかけてサルの輸送を中止させるなどの行動を取ってきた。イヌの繁殖施設の前で抗議活動を続けるグループもいる。ある世論調査では、米国人の8割が動物実験の段階的廃止に賛成している。大型動物を使う研究では、倫理審査を求める規制当局の要求が厳しくなり、研究の進展は鈍化している。

中国は、こうした西側諸国の後退を好機とみている。同国では、動物実験や遺伝子改変などを包括的に規制する動物福祉法が整備されていない。
監督体制は緩く、違反行為を報告する仕組みも整っていない。規制の重点は、動物の合法的な入手経路や感染症の検疫、バイオセーフティ(生物安全)などに置かれ、動物の苦痛はほとんど考慮されていない。 動物保護団体は「西洋的価値観を持ち込む存在」として退けられる一方、国営メディアは米国とのバイオ技術競争の中で、中国の科学者を英雄として称賛している。

研究体制の規模も中国の強みの一つだ。同国は長年にわたり、世界の研究機関に動物を供給する主要国であり、実験用サルの飼育数も世界最大級を誇る。2010年以降、政府はマウス、ウサギ、鳥類、イヌ、霊長類などを数多く飼育する国営研究センターを8カ所整備。2019年には、ブタと霊長類を使った医療研究モデルを開発するため、国家資金による遺伝子研究センターを2カ所設立している。
中国はクローン研究にも力を入れている。サルのクローンを誕生させることに世界で初めて成功したのち、遺伝子編集と組み合わせ、睡眠障害など同一の症状を再現できる個体群を生み出した。これにより、創薬や疾患研究の効率を高めることを目指している。
「(クローン技術によって)完全に同一の遺伝的背景を持つ霊長類を得ることができる。それによって疾患モデル研究や薬剤評価の信頼性が高まる」と、サルのクローン化プロジェクトを率いた強氏はブルームバーグ・ニュースに語った。

しかし、遺伝子改変や大型動物を使った実験の拡大に対しては、倫理的な懸念も根強い。批判的な立場の研究者は、大型動物は社会性や知能が高く、人間に近い存在であるため、苦痛を伴う実験の正当化は難しいと指摘する。オックスフォード大学の遺伝学者で生殖生物学者のアンディ・グリーンフィールド氏は、「実験は慎重に正当化され、実際的な利益をもたらすものでなければならない」と述べた。
サルを遺伝子操作してアルツハイマー病や自閉症を再現できるのなら、いずれ人間にも同じような「修正」が施されるのではないか。倫理学者の間では、そんな懸念が持ち上がっている。
現時点では、中国でも他国と同様にマウスが医療研究の主力として使われている。コストが低く、繁殖が早く、遺伝子操作が比較的容易なためだ。一方で、人間の代替モデルとしては不完全でもある。寿命が短いため、がんのように進行の遅い疾患はマウスでは発症しない場合もある。
清華大学の賈氏と共同でバイオ企業の神済昌華(シニュージーン)を設立した彭林氏は、遺伝子改変動物の活用を続ける方針を明確にしている。同社は自閉症やパーキンソン病の研究として、イヌや霊長類を使った遺伝子改変モデルの開発を進めている。彭氏は「規制が比較的緩やかで、社会の理解も得やすい」と話す。将来的には、こうした疾患にもがんと同様に治療法を確立することを目指している。

ALSは、物理学者のスティーブン・ホーキング氏や野球選手のルー・ゲーリッグ氏が罹患したことでも知られる。しかし、世界で人口10万人あたり2-6人が発症する希少疾患で、研究資金が集まりにくいのが現実だ。遺伝子改変ブタの研究から生まれた遺伝子治療薬「SNUG01」には、治療の新たな可能性として期待が寄せられている。
ブタが倒れた瞬間の記憶は、いまも賈氏の脳裏に鮮明に残っている。寡黙だが情熱的な科学者である同氏は、動物を解剖するたびに罪悪感を覚えると打ち明ける。それでも、信念が揺らぐことはなかった。
こうした研究の進歩をめぐっては、常に倫理とのせめぎ合いがつきまとう。オックスフォード大学のグリーンフィールド氏は、「たとえシニュージーンのような治療法が有効性を示したとしても、倫理的な議論は今後も続くだろう」と指摘する。
「われわれが問わなくてはならないのは、その研究が本当に主張どおりの成果をもたらす可能性があるのかという点だ。仮にそうだとしても、最小限の動物で苦痛をできる限り抑える方法をどう確立するかが重要になる」と同氏は語った。
(ブルームバーグ・ニュースの親会社であるブルームバーグ・エル・ピーは、国際ジャーナリストセンターと共同で清華大学にビジネスジャーナリズム学位プログラムを提供しています)
原題:China Pushes Boundaries With Animal Testing to Win Biotech Race(抜粋)
