横綱・日馬富士の暴行事件を契機に表面化した日本相撲協会と一代年寄・貴乃花親方の確執。とうとう貴乃花親方の“廃業”という結末になりそうだ。廃業というよりは日本相撲協会による貴乃花親方の締め出しといった方がいいだろう。日本の国技である相撲をめぐるこの騒動は一体何を意味するのだろうか。2020年の東京オリンピックを前にボクシングや女子体操界などで頻発している不祥事となにか違いがあるのだろうか。外部から表面的に眺めているに過ぎないが、一連の不祥事に共通しているのは「古い体質」と「新しい潮流」との対立である。旧態依然とした権力に新しい波が襲いかかろうとしている。どちらの言い分が正しいかではない。どちらの言い分に世間が同調するかの戦いである。勝ち負けはわからない。どちらが勝つかによって日本の将来が変わる可能性がある。

 

貴乃花問題は旧態依然とした日本相撲協会と、説明不足で思い込みの激しい貴乃花という人格が衝突して起っている。勝負の行方は予断を許さない。個人的には一連の流れのなかで、相撲協会の“古さ”だけが際立っていると見る。極め付けは最近明らかになった「一門」を前面に押し出した協会統治だろう。公益社団法人として協会と相撲界の透明化を図るために、伝統ある5つの一門(出羽海、二所ノ関、高砂、時津風、伊勢ケ浜)への登録を義務付けた。一門の人脈を利用して人事とカネを支配しようというや野望だろう。透明化を図るための手段が理事会による申し合わせ程度の合意という点がいかにも相撲協会らしい。不透明な手段によって公益法人としての透明化を図る。こんなことが許されるようであれば、監督官庁の責任が問われるだろう。監督官庁よ、しっかりせよと言いたくなる。

 

一方の貴乃花は新しい相撲団体の設立を画策しているようだ。面白い、大いにやるべし。何の役にも立たないが、陰ながら応援しようではないか。ネット情報によると貴乃花が設立する新しい団体の名称は「シン・相撲」だそうだ。「シン」には3つの意味があるという。1つは旧態依然とした要素を排除し一新する「新」の意味。2つめは、真剣勝負の「真」で、3つめは、神事・国技として品格を尊重する「神」の意味を込めているという。「新」と「真」は同意、「神」は不同意。個人的には「神」より「深」を希望。スポーツに限らず日本は表面だけではなくこころの奥底まで「深化」し、進化しなければならないと思う。貴乃花の“シン”になぞらえて喩えれば、日本相撲協会には3つの“カイ”がある。「怪」であり「戒」であり「晦」だろう。ひょっとすると貴乃花の戦いは、日本の将来を左右する戦いになるかもしれない。