[東京 28日] – 安倍政権は27日、31兆円規模の財政支出を伴う2020年度第2次補正予算案を閣議決定した。米国初め海外でも新型コロナウイルス問題で発生した経済危機に対して大規模な財政支出による経済対策で対応しようとしている。最近では海外投資家の間で「世界経済はMMT(現代貨幣理論)の時代を迎えた」などと言った声も聞かれるようになってきた。
米ドルが日本や欧州などとの金利差の割には高止まっている中、米連邦準備理事会(FRB)による果敢な金融緩和策とトランプ政権による大規模な財政刺激策は、経常赤字のファイナンスの必要のある米ドルに最終的には下落圧力を加えるだろう。筆者は年内にドル/円JPY=EBSが100円を割り込む下落になってもおかしくないと考えている。
これほどの周辺環境の悪化にもかかわらず、現在までのところ米ドルは驚くほどの底堅さを維持しているが、ここでは現在起こっている世界経済と経済対策における地殻変動の動きが、長期的に為替相場にどのような影響を及ぼすかを考えてみたい。
<MMT時代に突入した経済対策>
米国や豪州、ニュージーランドに続き、日本政府も合計すると経済規模比10%を超えるような財政支出策を講じる現状に対し、驚きを持って眺めている人も多かろう。実のところ筆者もその1人だが、こうした大胆な経済対策はコロナ危機で突然出てきたものではないことを認識することが重要だ。
その変化は昨年から始まっていた。財政政策と金融政策の関係は長らく議論されてきた問題だが、昨年8月にFRBの元副議長で、イスラエル中銀総裁や国際通貨基金(IMF)筆頭副専務理事、マサチューセッツ工科大学(MIT)教授などを歴任したスタンレー・フィッシャー氏を共同執筆者の1人とするリサーチ・ペーパーが発表され、その中で次の景気減速局面では財政政策をフル活用すべきで、ゼロ金利のわなに陥っている金融政策も財政ファイナンスでそれに協力できる、といったことが提唱された。
昨年春にはIMFの元チーフエコノミストのオリビエ・ブランシャール氏が日本への政策提言の中で、名目金利が名目成長率を恒常的に下回る経済においては、日本に限らず、財政政策による景気刺激が有効であるとの見解を示した。
1980年代のレーガン、サッチャー両氏による新自由主義革命以降、経済学では(新)古典派経済学やマネタリズムの流れをくんだニューケインジアンが主流派となり、経済対策は金融政策が主体とされ、ゼロ金利制約に直面した場合でも、中央銀行は量的緩和やマイナス金利政策などの非伝統的政策で金融緩和を拡大できると考えられていた。
だが、次第にその弊害が目立つようになり、昨年10月にはオーストラリア準備銀行(RBA)のロウ総裁を議長とする国際決済銀行(BIS)の国際金融システム委員会が非伝統的金融政策に関する答申をまとめ、それらの政策は市場対策としては有効ながらも副作用も大きいとの考えを示すに至った。こうした流れの中で、上記のように財政政策を有効活用するとの考えが強まることになったのだ。
<MMTで通貨高か、通貨安か>
その意味では80年代以降、数十年続いた新自由主義路線が大きな曲がり角を迎えたのが昨年であり、図らずもコロナ危機でその実験的実践が始まったのが今年だと捉えるのが的確だろう。政府の調達コストを低く押さえることを目的に金融政策をその枠組みに組み入れていることは、究極的には金融政策は無効とするMMTの考えとは相容れないが、現在進行中の大規模な経済対策を「MMT」的政策と形容するのは利にかなっていよう。
財政政策が経済対策の主体となる場合、為替相場へのインプリケーションはどうなるのであろうか──。
古典的な国際金融の考え方であるマンデル・フレミングの定理では、財政拡張政策は金利上昇を招き、通貨高になることでその有効性が減退する。反面、金融緩和策は通貨安にもつながり、その有効性は高いと論じた。
だが、現実的には内需不足の状況の下では、金融緩和とのポリシーミックスで金利上昇は抑制されるため、財政拡張策が持続的な通貨高につながることは少ない。むしろ、財政による内需拡大で輸入が増え、経常収支が悪化しやすくなる分、中期的には通貨安に貢献することが多い。
新興国のように格付け不安を抱える国には、格下げリスクも通貨安要因となる。また、日本のように米国などとの国際関係を重視する国は財政拡張策を取るとることで、金融緩和策や場合によっては円売り介入などの通貨政策に対する海外からの理解を得やすくなり、通貨安的な影響が生じる。
ただし、足もとのようにコロナ危機とロックダウン政策で内需縮小が生じている中では、財政支出の増加がそのまま内需拡大に直結する訳ではない。
また、そうした状況下では財政拡張策がインフレに直結する訳でもなく、少なくとも短期的には購買力平価的な通貨安懸念も警戒する必要はない。つまり、MMT的政策に本来、期待されるファンダメンタルズ的な影響が見えにくいのだ。
<なぜドル安にならないのか>
やや古いデータではあるが、例えば4月上旬にIMFが発表した世界経済見通しによると、各国の内需縮小と経済対策を考慮した上で、今年の米経常赤字は昨年の経済規模比2.3%から今年は2.6%へと小幅に拡大するに過ぎないとの見方が示されていた。
日本の経常黒字は3.6%から1.7%への縮小が見込まれており、今回の第2次補正の影響を加味すると、そこからもう少し黒字が減る可能性もある。これは円高要因の緩和と見るべきだ。つまり、日米のMMT的政策は経常収支の変化を通じて、ドル安/円高を緩和させる方向的に作用するとことになる。
一方、経済規模比3%を超える赤字拡大が見込まれているのが英国、カナダ、ニュージーランドであり、特に英国とニュージーランドは中央銀行が財政ファイナス(マネタイゼーション)に着手し始めている。早い段階で通貨安圧力が強まるとしたら、英ポンドやNZドルではないかと考えられる。
ユーロ圏は欧州中銀(ECB)が金融緩和に法的な(EU条約上の)制約を抱えていること、財政刺激策が取られているとは言え、小規模であることを考慮すると、経済規模比3%を超える経常黒字から生じる通貨高圧力が、どこかで表面化してくるだろう。
ただ、足もとではドル/円が底堅さを維持していることに加え、ユーロも対米ドルで低空飛行が続いている。長期的な観点から想定される米ドル安(その裏方での円高やユーロ高)の動きが、まだ出てきていないことは事実である。
突如としたコロナ危機の勃発で、1)3月には世界的なドル不足問題が生じたこと、2)それに伴う世界的な株価下落が、時価総額の大きい米株市場のリバランス活動を発生させ、年金など長期投資家によるマネーフローを促したこと、3)4月以降も米企業などによる海外留保利益の米国へのリパトリエーションが生じていること、4)サウジアラビアのように外貨準備が減少した国の通貨操作でドル買いが生じたこと──など、やや特殊な需給要因が米ドルを下支えしてきたと思われる。
政策的な米ドル安圧力が表面化してくるには、こうした需給要因のはく落を待つ必要がありそうだ。ただ、今回、米国の対策が大胆であるため、いったん「トランプ政権のMMT政策で米ドル安」との見方が市場で共有されるにいたった局面では、持続的な米ドル安トレンドが発生することも考えられるのではないか。
(本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています)
*高島修氏は、シティグループ証券のチーフFXストラテジスト。1992年に三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に入行し、2004年以降はチーフアナリスト。2010年シティバンク銀行入行、チーフFXストラテジストに。2013年5月より現職。
編集:田巻一彦