[キーウ 19日 ロイター] – ミラ・パンチェンコさん(53)は、食糧と水の不足に耐えかねて親ロシア派勢力の保護下に入り、包囲下にあるウクライナの都市マリウポリから脱出した。気がつくと、彼女がいたのはロシア南西部にある駅のプラットホームだった。
パンチェンコさんはアゾフ海に面したタガンログ港の駅で、200人ほどのウクライナ人とともに列車に乗せられ、ウクライナと国境を接するロシアのロストフ州内の別の場所に移送されると告げられた。
だが列車が目的地に着いたとき、そこはロシア・トゥーラ州にあるスボーロフという街だった。タガンログからは約1000キロも離れている。
「警官がたくさんいた。駅は封鎖されており、一般のロシア人は私たちに近づけなかった」とパンチェンコさんは言う。出迎えの群衆はいたが、トゥーラ出身の友人の息子は、駅に入ることを許されなかった。「明るい雰囲気で、クッキーが振る舞われた」
ロイターは、パンチェンコさんの他、先月マリウポリを脱出したもう1人のウクライナ人ナタリア・ビルメイヤーさん、そして別の難民2人の親族に話を聞いた。
彼女たちの話を総合すると、マリウポリの一部の市民が包囲された同市を脱出するには、ロシアに逃れるしか選択肢がなかったことが分かる。その行程では親ロシア派勢力による身体検査や尋問が繰り返され、ウクライナ国境から遠く離れた場所に移送される例も多かった。
彼女たちの談話について、ロイター独自の裏付けは得られていない。
パンチェンコさんやビルメイヤーさんがロイターに語った、選択の余地なくロシア国内の遠隔地に送られたウクライナ人の証言について、ロシア政府にコメントを求めたが、回答は得られていない。
ロシア政府は、2月24日にウクライナ侵攻を開始して以来、意図的に民間人を標的とすることはないと述べている。
パンチェンコさんによれば、彼女はロシア当局により、列車に乗っていた他のウクライナ人とともにトゥーラ州内のクラインカと呼ばれる地域の療養所に連れて行かれたという。あてがわれた部屋には、小さな冷蔵庫、テレビ、それにシングルベッドが2つあった。テーブルには、伝統食のジンジャーブレッド、甘いビスケット、水とアイスティーが置かれていた。
クラインカの療養所に、ウクライナ人受け入れにおける役割についてコメントを求めたが、回答は得られなかった。
開戦前、パンチェンコさんは貯水タンク工場のマネジャーで、地方議会の議員も務めていた。クラインカの療養所に到着した後、パンチェンコさんは指紋を採取され、写真を撮られた上で、検察官の前で尋問を受けたという。ロイターでは検察官の氏名を確認できなかった。
ロシア語とウクライナ語を話すパンチェンコさんは、2014年以降、ウクライナにおけるロシア語への抑圧が強まったかという質問を受けたという。
2014年は、ロシアがクリミア半島を併合し、ウクライナのドネツク州、ルガンスク州の一部を実効支配する親ロシア派勢力が「人民共和国」の建国を宣言した年だ。
ロシアがウクライナにおける「特別軍事作戦」を正当化する根拠の1つとして掲げるのは、ロシア語話者の保護である。ロシア政府は、彼らがウクライナのナショナリストから迫害を受けていると主張している。ウクライナはこれを否定している。
「私は、自分はウクライナ語を話せるし、この言語が好きだとだけ答えた。ロシア語に対する抑圧を目にしたことはない、とも言った」
<国外への強制移送>
ウクライナの人権オンブズウーマン、リュドミラ・デニソワ氏は先週、ロシアがマリウポリから13万4000人の市民を連れ去り、そのうち3万3000人をロシアに強制移送したと述べた。ロイターではこれらの数値が正確なものか確認できなかった。
ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)で欧州・中央アジア担当副ディレクターを務めるレイチェル・デンバー氏によれば、HRWでは「明らかに強制移送と見られる」例を少なくとも1件記録しているという。同氏の説明によれば、これは「侵攻した側の国に強制的に連れ去ること」を意味する。
紛争下における人道的扱いの法的基準を定義した1949年ジュネーブ条約は、国際紛争に際して占領国側の領域に民間人を大量強制移送することを禁じており、戦争犯罪に分類している。
ロシアは、マリウポリを離れることを望む人に人道的支援を提供していると述べている。ロシア政府のウェブサイト上で3月12日に発表された決議には、ウクライナ及び分離独立を唱える両「共和国」を離れてロシアに移動した9万5909人の所在が示されている。
1カ月後の4月14日、ロシアのミハイル・ミジンツェフ上級大将は、マリウポリでの戦闘が激化する中で、同市だけでも13万8014人の市民がロシア軍によって救出されたと述べた。
パンチェンコさんがマリウポリを脱出したのは3月17日。彼女を含む数十人の市民はカルミウス川左岸の建物の地下室に避難していたが、この日、チェチェンの部隊がこの建物を確保したという。
「ここに部隊本部を設置するから私たちは出て行かなければならない、と言われた」とパンチェンコさんは電話で話してくれた。ロシアを出国したパンチェンコさんは、現在はイタリア北部ブレシアで暮らしている。
食料と水が欠乏していたため、チェチェン人兵士らが提供する軍用車に乗せられてドネツクのロシア軍支配地域に運ばれる以外の選択肢はなかった、とパンチェンコさんは語る。
パンチェンコさんたちはまず軍用車、次いでバスでベジメンヌの村に移送された。この村では、分離独立派のドネツク人民共和国(DPR)の警察官が対応施設を用意していた、とパンチェンコさんは言う。彼女たちは指紋を採取され、分離独立派の警察官による尋問を受けた。
DPRの広報官とチェチェン共和国当局にコメントを求めたが、回答は得られなかった。
「ウクライナ軍と何か繋がりはあるか、アゾフ大隊の誰かを知っているかと質問された」とパンチェンコさん。アゾフ大隊は、ウクライナ国家警備隊に属する部隊で、ロシア政府は、ロシア語話者を標的とする攻撃を行っていると非難している。
「私たちは何のリストにも載っていなかったから、再びバスに乗せられタガンログ駅に連れて行かれた」
<列車でロシア内陸へ>
ビルメイヤーさんは3月22日、ロシア軍の攻撃が迫る中で、夫と6歳、7歳になる2人の子どもと一緒に、親戚が住んでいた集合住宅の地下室から脱出した。西側の海岸に位置する近隣の街ベルディアンスクに行くつもりだったが、砲撃のため、そのルートを進むことはできなかった。
「街の一部はロシア兵に支配されていたから、マリウポリを離れる手段は1つしか残されていなかった。そこで、ロシア兵が私たちを移送し、ロシアに送られた」
ビルメイヤーさんによれば、ロシア軍が支配する地域を通過する際、ウクライナ市民は繰り返し尋問を受け、ロシア軍が戦闘員を捜索していたため、男性は衣服を脱ぐことを求められたという。
3月23日には、ビルメイヤーさんはロシア領に移され、タガンログ駅に連れて行かれた。
「タガンログでは『私たちが皆さんを救った』『食事を出してあげる』など、きれいごとをたくさん聞かされた」とビルメイヤーさん。彼女は、ロシア中部のタムボフやウラジーミルに向かう列車を目にした。「列車ごとに行き先が違うのは明らかだった」
電話を使えるようになると、ビルメイヤーさんはアゾフ海を挟んでウクライナ東部と向かい合うロシアのクラスノダール地方にいる叔母に連絡した。叔母はビルメイヤーさん一家を迎えに来てくれた。
だが、叔母の家に落ち着いたビルメイヤーさんは、外出をちゅうちょするようになったという。見知らぬ人から「ロシアによる空爆を招いたのは、ロシア語話者を攻撃するウクライナの責任だ」と言われるのにウンザリしたからだ。ロシア人の多くは、ロシアのメディアが増幅する「紛争における民間人の犠牲者は、ロシア政府の信用を損なおうとするウクライナ軍によるものだ」という政府の見解を繰り返すだけだった、と彼女は言う。
ビルメイヤーさんはまもなく夫・子どもたちとともにジョージアに逃れた。
どうすれば母国に戻れるかは分からない。ウクライナ大使館に助けてもらおうと苦心しているが、国内で通用する身分証明書しか持っていない。さらに、夫が彼女と一緒にウクライナを離れたのも違法だ。従軍可能な年齢の男性は国を離れることを禁じられていたからだ。
ウクライナ外務省のオレグ・ニコレンコ報道官は、在ロシアの大使館・領事館は安全上の理由から閉鎖せざるを得なかったが、近隣諸国に駐在する大使館が、ロシアに移送されたウクライナ国民が母国に戻れるよう暫定的な渡航書類の発行などの支援を提供すると述べている。
パンチェンコさんはクラインカの療養所に10日間滞在した後、マリウポリから一緒に逃れてきた高齢の隣人と共に暮らすと称して、モスクワの東、ボルガ川に面した都市ニジニ・ノブゴロドに向かうことを認めるようロシア側を説得した。
療養所を出たパンチェンコさんは、ジャンさんと呼ぶ隣人とともに、実際にはモスクワに行き、そこからバルト諸国をめざした。パンチェンコさんは最終的にイタリアに向かう手段を見つけた。
「でも、何とか稼いで故郷のマリウポリに戻ろうと思っている。もし、あの街がまだウクライナであれば」と彼女は言う。
「ウクライナに帰りたいと強く願っている」
(翻訳:エァクレーレン)