トランプ大統領が9日(日本時間10日)、ダラスで開催された共和党の中間選挙大会で演説し、「共和党が連邦議会の上下両院で多数派を維持できれば、すべての米国人の成人に1人5000ドル(約77万円)の『配当』を支給する」と約束した。中間選挙で苦戦が伝えられる中、一見すると、なりふり構わぬ有権者への“買収”に打って出たようにも見える。
誰でもそんな印象を受けるだろう。気になったのでチャーリーに聞いてみた。答えは明瞭だった。「日本的な感覚では、どう見ても買収に近い。しかし、米国法では、現在の発言内容だけで『違法な票の買収』と認定される可能性は低い」というものだった。詳細は割愛するが、ポイントは候補者が個々の有権者に投票の見返りとして金銭を渡す約束をしたのか、それとも選挙後に一般国民に利益をもたらす政策を約束したのかという違いにある。
トランプ氏が「共和党に投票した有権者に5000ドルを支給する」と発言したなら、話は全く違う。これは投票行為そのものを条件とするため、違法な票買収に当たる可能性が高い。
米国最高裁には、1982年の「ブラウン対ハートレイジ事件(Brown v. Hartlage)」という重要な判例がある。これは、候補者が当選した場合に自らの給与を引き下げると公約したことが問題となった事件だ。最高裁は、特定の有権者に個人的な金銭を支払う約束と、選挙後に公的な立場から一般国民に利益をもたらす政策を約束することは同じではないと判断した。
トランプ氏の発言は、まさにこの違いを突いている。5000ドルの支給条件は「共和党に投票すること」ではない。「共和党が下院と上院の双方で多数派を維持すること」だ。つまり、個々の有権者の投票を直接の条件にはしていない。
しかも対象を共和党支持者に限定していない。成人市民全体に支給するという形を取っている。したがって、法的には「特定の有権者に投票の対価を支払う」という典型的な買収とは区別される。とはいえ、「中間選挙で共和党が勝てば、あなたにも5000ドルが入ります」と訴えていることに変わりはない。実に巧妙なレトリックである。
法的な問題をクリアしたとしても、5000ドルの支給には議会の承認が必要になる。大統領が単独で連邦政府の巨額の歳出を決定できるわけではない。
ロイターによると、対象となる成人を約2億4000万人とした場合、総費用は約1兆2000億ドル(約184兆円)に上る。さらに、これを借金で賄えば、数千億ドル規模の利払い負担が生じる可能性がある。共和党内からも、インフレを加速させ、財政状況をさらに悪化させるとの懸念が出ている。
したがって、議会が承認しなければ、トランプ氏といえども成人1人当たり5000ドルを支給することはできない。現段階では、実行可能な政策というより、選挙に向けた強烈な政治的メッセージと見るべきだろう。
考えてみれば、ホワイトハウスには優秀な法律の専門家が多数いる。トランプ氏の発言も、単なる思いつきではなく、発言する前に法的な問題がないか検討されている可能性がある。そうだとすれば、これはまさに選挙を意識した「言い得、やり得」の発言なのかもしれない。
法律的に問題がないとしても、大統領の発言として政治倫理上「問題がある」と、チャーリーは指摘する。しかし、トランプ大統領に政治倫理を求めても、どこまで効果があるのかは疑問だ。そもそも有権者は、政治倫理だけを基準に投票先を決めるのだろうか。
むしろ経済的に、この策に「有効性はあるのか」の方が気になる。身内の共和党内部からも「インフレ加速」「財政悪化」の懸念が指摘されている。ロイターによると、実行した場合の総費用は約1兆2000億ドルに上るうえ、追加の利払い負担も発生する可能性がある。
一見すると、経済合理性は乏しいように見える。ここで思い出すのは、かつて議論を呼んだMMT(現代貨幣理論)だ。
MMTは、政府が自国通貨を発行できる場合、政府支出の財源を単純に「税収がなければ支出できない」と考える必要はない、とする。しかし、それは「税金をゼロにしても、いくらでも財政支出できる」という意味ではない。インフレや実物資源の制約があるため、財政支出には限界がある。
そう考えると、トランプ氏の5000ドル給付も、単に「お金を配れば景気が良くなる」という話では済まない。巨額の財政支出がインフレや金利、国債市場にどのような影響を与えるのかを考える必要がある。実際、ロイターも、この規模の現金給付がインフレを押し上げ、国債利回りや政府の借入コストを高める可能性を指摘している。
ウクライナ戦争やイラン戦争、ICC(国際刑事裁判所)関係者に対する経済制裁など、従来の常識が通用しにくい時代になっている。そこに今回の「5000ドル配当」が加わった。
もしトランプ氏の発言が中間選挙に実際の影響を及ぼすことになれば、それは単なる選挙戦術の問題ではない。「選挙と財政政策をどこまで結び付けてよいのか」「健全財政とは何なのか」という問題そのものを、米国社会に突き付けることになるかもしれない。