
[東京 16日] – 「私が胴元だ」に象徴されるような一連のベセント米財務長官による強気の発言を受けて、円相場はにわかに騰勢を強めている。これを契機として一部メディアからも一斉に円安局面の終息に構えるような報道が行われている。
しかし内容を追うとその解説はおおむね一様で、「米国の通貨政策が本腰になったのだから、円安修正はまだ始まったばかり」という印象論が支配しているようにも感じられる。ベセント氏による情報発信に言いなりのような値動きや論点形成にはやや危うさも感じる。
もちろん、変動為替相場制の歴史は円高の歴史であり、それはまた、米国の通貨政策の意向を汲んだ歴史でもあった。よって、政治色を帯びてきた足元の相場に恐怖心を抱くことは理解できる。現実問題として、ベセント氏がどのようなカードを温存しているのかは完全に読み切れず、「円安修正はまだ始まったばかり」という見通しも完全に退けることは難しいかもしれない。
しかし、円相場を取り巻くファンダメンタルズは本当に大きく変わったのだろうか。丸4年続いた円安局面は少なくとも一時的とは言えない相場現象になり、日本ではすっかり社会問題化している。そこまで粘着的な相場が、米財務長官の神通力だけで反転が可能なのか。定性情報に左右されそうな今だからこそ、定量情報から現在地を確認しておきたい。
<円安要因は根絶されたのか>
我々が今考えるべきことは、米国の財務長官がどれだけ派手なフレーズを使ったかではなく、過去4年間で指摘されていた円安要因が根本的に変わったかどうかである。その修正なくして、予測の妥当性もまた、確保されないはずだ。
論点を全て列挙することは難しいが、これまで言及されていた日本側にまつわる円売り要因は1)長らく続く超低金利環境、2)貿易収支赤字に象徴される需給構造の変容、3)慢性的な拡張財政路線――などであった。
このうち明確に変わったのは1)だけであり、この点についてはベセント財務長官による一連の援護射撃が政策環境を大きく変えたのは間違いない。とはいえ、米連邦準備理事会(FRB)や欧州中央銀行(ECB)も同じく25ベーシスポイント(bp)ずつの利上げが当然視される中、日銀(ひいては日本経済)にとっては大きな利上げであっても、円安を修正するにあたって特別な意味は薄れているのも事実だろう。
既に為替市場では「50bp以上の利上げでなければ、期待を超えられない」という声も散見され、日銀の利上げは円安抑止にはなっても、円高促進に繋がる一手とまでは言えまい。日銀の利上げペースは欧米のそれと比べて相対的に早めになることが織り込まれているものの、金利水準自体がキャッチアップする(追いつく)わけではない。一方で、ベセント氏の言動も踏まえ「来年7月までに4回の利上げ」を織り込む中で円高が進んでいる部分もあるとすれば、利上げはこれ以上の後退が許されないだろう。しかし、政治・経済・社会的に今の日本でそれは本当に可能なのだろうか。むしろ、後述するような中東情勢の激変も生じている中、9月利上げの妥当性すら検証されかねない雰囲気もある。
なお3)の慢性的な拡張財政路線も、消費減税路線が温存され、史上最大の概算予算要求額が示される中、「拡張的ではない」と言ってのけるのは難しい情勢ではある。強いて好意的に見れば、「2027年度の補正予算編成は行われない」という前提が本当に実現するならば、健全性に前進が認められるという解釈も可能だが、それを主たる材料として円買いを進めている市場参加者は決して多数派ではないだろう。
<原油高は円高を相殺して余りある>
何を置いても問題は2)にまつわる議論である。この点はどう考えても円安圧力が強まる方向に事態が動いている。今年3月のイラン攻撃以降、筆者は貿易収支に関しては逐一、シミュレーションを更新している。例えば本稿執筆時点のドル/円相場(153円と仮定)と原油価格(1バレル100ドル)を前提とすると26年の貿易収支赤字は約マイナス9兆円にも達する可能性がある。備蓄放出による輸入削減効果(筆者試算によれば約マイナス5兆円)がなければ、貿易収支赤字は約マイナス14兆円と史上最大の22年(約マイナス21兆円)に次ぐ規模だったというのが筆者試算である。
その上で、ホルムズ海峡の代替ルートと位置付けられるペルシャ湾から紅海に原油を輸送する東西パイプラインが攻撃を受け稼働停止に至っているとサウジアラビアから発表があった。イエメンの親イラン武装組織フーシ派が紅海の出口に位置するバベルマンデブ海峡への攻勢を強めているとも報じられており、ホルムズ海峡封鎖を受けた代替ルートが閉じられた構図にある。
だとすると、原油価格が続伸する恐れがある。筆者試算に基づけば、仮にドル/円相場が145円まで下落しても、原油価格が100ドルのままであれば貿易収支赤字は約マイナス8兆円と1兆円程度しか改善しない。なお、145円まで下落しても、原油価格が110ドルまで続伸した場合、約マイナス9.5兆円まで悪化する。輸入金額の感応度はドル/円相場よりも原油価格の方が大きいため、円安が幅をもって修正されても原油価格が高止まりすれば貿易収支赤字は縮小しない。そして、それゆえに実需の円売り圧力も粘着性が残ることになる。
<試される円買いの本気度>
実際のところ、6月以降の東京外国為替市場では、ホルムズ海峡を経由しない代替調達が進められる中で貿易収支赤字が拡大するという圧倒的な現実に直面している(本稿執筆時点では7月分の貿易統計までが確認済み)。にもかかわらず、「ベセント氏の語気が強いから円安修正はまだ序盤」という定性的な説明が威力を持っている状況にはやや危うさを覚える。
もちろん、直情的な為替市場では「米国の財務長官の神通力」に賭ける勢力が潮流を変える可能性もある。だからと言って定量的なデータが訴える事実を無視して良いわけではあるまい。少なくとも、当面の円相場に関してはベセント発言と同等以上に、中東情勢やこれに伴う原油価格の影響を重く見るべきというのが筆者の基本認識だ。
9月8日時点のIMM通貨先物取引の状況では今年2月24日以来、約7カ月ぶりに円のネットポジションがロングに転じている。現状ではプラス8.8億ドルとおおむね中立だが、果たして上述した3点の状況にもかかわらず、このまま円ロングを積み上げる取引が続くのだろうか。
「ショートの巻き戻し」と「ロングの積み増し」では必要になる動機が異なってくる。貿易収支の赤字が再拡大しそうな今、投機的な円買いの本気度が試される局面に直面していると言って差し支えないだろう。円安修正が序盤と考える向きは「ベセント氏は何らかの切り札を持っているはず」と神通力を重く考えているのかもしれないが、歴史をひもといても、結局、ファンダメンタルズにあらがう価格形成は長くは続けられないという事実も捨て置けない。少なくとも中東情勢混乱に応じて原油価格が1バレル100ドル以上で常態化している中、円安の憂いが完全に終息したとまで考えるのは難しいようにも思える。
編集:宗えりか
*本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
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唐鎌大輔氏は、みずほ銀行のチーフマーケット・エコノミスト。2004年慶應義塾大学経済学部卒業後、日本貿易振興機構(ジェトロ)入構。06年から日本経済研究センター、07年からは欧州委員会経済金融総局(ベルギー)に出向。08年10月より、みずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)。欧州委員会出向時には、日本人唯一のエコノミストとしてEU経済見通しの作成などに携わった。著書に「弱い円の正体 仮面の黒字国・日本」(日経BP社、24年7月)、「『強い円』はどこへ行ったのか」(日経BP社、22年9月)など。新聞・TVなどメディア出演多数。note「唐鎌Labo」にて今、最も重要と考えるテーマを情報発信中。