
尾河眞樹 ソニーフィナンシャルグループ執行役員 チーフアナリスト
[東京 1日] – 8月28日、カンザスシティー連銀主催の年次経済シンポジウム(ジャクソンホール会議)で行われたウォーシュ議長の発言を受けてドル/円が上昇し、一時160円台に載せる場面がみられた。同氏は「個人消費支出(PCE)価格指数で測る2%の物価安定目標は固定された目標であり、それを実現するのが米連邦準備理事会(FRB)の責務」と述べたうえで、「65カ月にわたり高インフレが続いた責任は中央銀行にある」と述べた。
また、「私たちの基準は明確だ。基調インフレが目標へ向かっていることを、十分な確信を持って確認できなければならない。そうでなければ、我々にはまだやるべき仕事がある」などと発言。これにより、市場では、9月の連邦公開市場委員会(FOMC)で約6割、10月まで入れればほぼ100%利上げが織り込まれる展開となり、ドルが押し上げられた。
同講演でウォーシュ氏は、フォワードガイダンス(先行き指針)の問題点を丁寧に説明していたが、市場のフォワードガイダンス依存からの脱却を目指すウォーシュ氏が、結果的に市場に利上げをほのめかす形になったのは皮肉ともいえる。しかし、7月のFOMC後の記者会見では同氏が、物価上昇が続く中でも「利上げが唯一の手段とは言い切れない」などと曖昧な発言をしたことで批判を浴びたが、今回の講演で、コアPCEデフレーター2%を目標としていることは変わらないこと、インフレの抑制に確信が持てなければ金融引き締めに踏み切ることなどの「政策反応関数」が明示されたことは、市場参加者からポジティブに受け止められたのではないか。
一方で、今回の講演では足りなかった情報もある。ウォーシュ氏はFRB議長就任時より、1)コミュニケーション、2)バランスシート政策、3)データ、4)生産性と雇用、5)インフレ枠組み――のうち、1)に当たるフォワードガイダンス、3)データの質や解釈の改善、4)AIと生産性、5)2%のインフレ目標について触れた。一方、バランスシート政策、また、ウォーシュ氏が兼ねてから必要としてきた量的引き締め(QT)などについては一切触れなかった。米長期金利は急騰しており、8月末には米10年債利回りが4.77%を付けるという流れにあった中で、市場参加者はこの点について注目していたはずである。
<通貨安と長期金利上昇の同時進行>
ドルと円の名目実効為替レートをみると、7月末の日米協調介入実施以降、ドルと円は8月を通して互いに下落しており、ドル安・円安の綱引きだったことで、ドル/円はおおむね159円付近で膠着(こうちゃく)していた。ジャクソンホール会議でのウォーシュ議長の講演以降は、米早期利上げ観測が高まるなかドルは小幅に上昇したが、「長期金利上昇と通貨安」の環境は日米共に変わらない。では、長期金利上昇と通貨安の同時進行はなぜ起きているのだろうか。
金利の上昇には「良い金利上昇」と「悪い金利上昇」がある。「良い金利上昇」は、経済成長を伴った金利の上昇で、賃金の上昇によりディマンド・プル型のインフレが起こり、利上げ観測を伴った長期金利上昇となる。まさに、日銀が目指すところの「賃金と物価の好循環」による金利上昇であり、この場合は実質金利の上昇により通貨高となる。
反対に「悪い金利上昇」は、極端なインフレや財政懸念などにより、国債や通貨の信認が低下する際に起こるもので、この場合は国債価格の下落と通貨安が生じる。
このように、「良い金利上昇」と「悪い金利上昇」では、通貨の方向は真逆となるわけで、今回の日米のケースは後者である可能性が高い。長期金利は、期待政策金利とタームプレミアムに分解することができるが、昨年10月の高市政権発足以降、「積極財政」により、タームプレミアムがじわり上昇。足元も、0.8%付近で高止まりしている。なお、タームプレミアムは10年債利回りから期待政策金利(円金利スワップ・1カ月先~10年先1カ月物の単純平均値)を引いたものを指す。
一方、米国も2025年の第2次トランプ政権発足以降、バイデン政権下ではゼロ%付近で推移していたタームプレミアムが上昇し、足下はやはり0.8%付近で高止まりしている。実際、26年4月に発表された国際通貨基金(IMF)による日米の一般政府財政収支(GDP比)は、日本が2.0%の赤字、米国が7.5%の赤字と、米国の赤字がはるかに上回っている。赤字拡大の背景にはトランプ政権による各種減税措置や、景気刺激策などによる財政拡張策が挙げられよう。ベセント長官は8月19日、米国債の買い入れ消却(バイバック)を強化するという異例の政策を打ち、長期金利の上昇を阻むのに躍起になっている。
しかし仮に、FRBがQTを実施すれば、米国債の需給が崩れ、タームプレミアムは上昇、米長期金利も上昇するだろう。ウォーシュ氏が今回の講演でバランスシート政策に言及しなかったのは、すぐにやると決まっているわけでもないQTに触れることで、FRBと財務省の政策運営上のスタンスの違いに市場の注目が集まることを避けるためだったのではないか。
<「政策の信認」回復とドル/円の見通し>
また、利上げの遅れ、いわゆる「ビハインド・ザ・カーブ(後手に回る)」懸念も日米双方の金利上昇に拍車をかけた。高市総理は日銀の利上げに対して慎重な立場と市場に受け止められてきたため、利上げの遅れが将来の大幅な金融引き締めに繋がるのではないか、との懸念から、円安を伴った長期金利の上昇が続いた。また、米国ではトランプ大統領に指名され、就任したウォーシュ議長は「実はハト派なのではないか」との見方が最近まで付きまとった。
7月29日に行われたFOMC後の記者会見を受け、「ビハインド・ザ・カーブ」懸念から米国債が売られ、長期金利が急騰したことは記憶に新しい。米国が日米協調介入に踏み切ったのは、この円安と長期金利上昇のスパイラルが米国に波及するのを防ぐためだったのだろう。ベセント長官は、この協調介入とともに、「相場の流れを変えるのは政策だ」と日本政府と日銀に注文を付けた。
ただ、日米共に財政問題は残るものの、「ビハインド・ザ・カーブ」問題は既に峠を越えつつあるのではないか。日銀の氷見野良三副総裁は8月27日の講演で、「利上げが遅れてインフレが高進し、急な利上げが必要になるような事態をあらかじめ防いでおくことが、中小企業や住宅ローンの借り手や財政にとっても、最終的には望ましいのではないか」と述べ、「ビハインド・ザ・カーブ」に陥ることへの危機意識を明確に示した。
また、先述の通り、ウォーシュ氏のジャクソンホール会議での講演は、ビハインド・ザ・カーブ懸念を後退させる内容だった。日米中央銀行がインフレへの対応にかじを切るなかで、足下の日米の長期金利の急騰は徐々に収まっていくとみている。日米双方が利上げ方向であれば、日米間の金利差が大幅に縮まることは考えにくいため、ドル/円が円高方向に転換する見通しは立てづらい。しかし、日米双方の中央銀行への信認が回復するなかで、少なくとも一方的な円安圧力は徐々に影を潜め、為替相場も安定してくるとみており、ドル/円は年末にかけて160円付近に落ちつくとの筆者の見方は不変である。
編集:宗えりか